清水真一翁顕彰会

清水真一顕彰会その人 昭和初期の映像動画 アマチュア天文家 篆書 収集した書籍
 清水真一氏は明治22年島田に生まれ、昭和61年に96歳で亡くなられた。島田に住む多くの人々から“チシンさん”と呼ばれ、読めない字があれば「チシンさんに行って聞いてくれば」と誰も言い、尋ねれば気軽に会って教えてくれた。また優れた文化人、知識人でもあり、有志と共に蘭契会を発足させ一流の音楽会、講演会を開いた。また天体写真の草分けであるとともに映画フィルムの現像でも画期的な開発をなし、日活映画のフィルムの現像も手がけた。

清水真一


清水真一その人

清水真一翁顕彰会とは

 島田市名誉市民・清水真一さんの残された書籍、資料、写真などを保存し、業績を市民に紹介することを目的に1999年に結成された団体です。

 清水真一さんは1889(明治22)年に生まれ、1986(昭和61)年に亡くなりました。チシン薬局元店主。文化人を呼んで講演会などを開いた「蘭契会」、小さな展示会、座談会を開いた「温知洞」、写真や映画を撮影発表した「遥光会」、京都大学花山天文台・国立天文台と協力した「天文写真」、漢詩、漢文に親しみ、篆書も得意とした「領奎会」など、広く市民に開放して文化の向上に大きな寄与し、1975(昭和50)年島田市初の名誉市民となりました。

文化都市島田の礎・蘭契会
  明治時代後半になると地域の産業の発展や時代の進展に対応できる若い力が求められ地方に青年団体が組織されました。島田地域の市街地にできた青年団は新文化を吸収するため各種講演会、講習会を開催し、青年団の幹事有志が地域文化の高揚を目的に「蘭契会」を作りました。 蘭契会の文化活動は大正8年から昭和7年ごろまで13年間続きますが、この活動において中心的な役割を担ったのが清水真一さんでした。実際に行った音楽会、講演会の記録は下記に掲載します、日本の一流の人たちが島田に来ました、すなわち清水真一はその方々と親交があったと言うわけですね。
写真は蘭契会のメンバー、このほかに、虎岩氏(醤油醸造店主)、秋野氏(島田信用金庫頭取)などが動画の中で出てきます。

温知洞 小さな展示会、座談会、などが26年間で422回開かれた

 温知洞は昭和11年にチシン薬局の西側に隣接して開設され、戦時中に一時中断した時期を含めて、昭和36年までの約26年間、写真や書などの展示会場として多くの市民に親しまれました。また展示会に併せてミニ座談会や講演会も開催しました。実施した展示会などは26年間で422回にも及びます。
詳細に付いては島田市図書館にあります「清水真一の軌跡」をご覧ください。
遥光会

清水氏は幼少の頃より写真が趣味でした。大正13年33歳の時に「島田フォトクラブ」が設立されると撮影会や展覧会に参加しました。大正14年に「パティ―ベビー9.5㎜映写機」が日本でも販売され、清水氏はこの反転現像に成功しています。昭和11年写真同好会「遥光会」を結成し、温知洞を利用して展覧会を開催しました。

パティーベビーで撮影された日本各地の街並み、風景や名所、島田大祭の様子は別ページでご案内します。昭和初期の映像動画
天文写真
 昭和6年天体望遠鏡を入手した清水氏は、チシン薬局の屋上に私設天文台「知新観象台」を設けました。当初は日食、月食、星食、惑星の観測を試み、その後京都大学花山天文台の指示で小惑星の観測を3年ほど、東京天文台の指示で彗星の観測は10年間継続して行い、観測した写真乾板を東京天文台に送っています。昭和12年には広瀬秀雄氏(後の国立天文台長)が出した計算予報から当時行方不明だったダニエル彗星再発見に成功し、アマチュアによる周期彗星検出の第一号となりました。
発見した彗星は矢印の左、赤い線との交点あたりのぼやっとしたもの、写真をクリックすると大きくご覧いただけます。


詳しい話を国立天文台の佐藤氏が書いております。

領奎会(りょうけいかい)

 清水氏は置塩棠園の高弟でもあり、漢詩、漢文に親しみ、書(特に篆書(てんしょ))を得意としました。地元の漢学者、荒浪煙厓との交流も深く、昭和26年頃より輪読をして楽しむことを目的として「領奎会」を立ち上げました。「領奎」とは荒浪の出身地向谷(島田市)の雅称(がしょう(風雅な呼び名))である「椋渓(りょうけい)」との発音だけを残して奎運を領取すると言う意味で「領奎会」と荒浪が名づけました「奎」とはアンドロメダ座からうお座にまたがる16星「とかきぼし」で文章を司る星座の名をさします。領奎会の活動は毎月10日を例会日と定め、温知書屋(清水宅)で実施されました。


清水真一その人 昭和初期の映像動画 アマチュア天文家 篆書 収集した書籍




制作、著作:清水真一翁顕彰会
お問合せ:島田市図書館 0547-36-7226